昭和50年07月09日 朝の御理解



 御理解 第86節
 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」

 女は世界の田地とか、または家の家老じゃとかという風に、最高の言葉をもって男尊女卑的な傾向のある日本で、しかもその色が大変濃厚であったという教祖の御時代に、女の地位と言うものを、こう言う所のものだとこう諌めて、ご理解下さっておると思います。けれどもどこまでも矢張り家老であるやはり田地である。天が父なら地は母だと。矢張り天が上で地は下である。
 男が殿様であるなら矢張り女は家老だという風に、そこん所の脇前と言うか、これは天地の一つの道理に合うたものでなければならないと。言うならばお爺さんは山に柴刈りに行き、お婆さんは川に洗濯に行くのである。それがこのごろではお爺さん、あなたも洗濯に行きなさいと言った様な事になったり、又はお婆さんが山に柴刈りに行って、それこそ出来ない難しい仕事に取り組んで。
 もうそれこそ血だらけになって帰って来ると言う様な浮き目を見ておると言うのが、男女同権を間違えた所の結果じゃなかろうかと私は思うのです。どこまでもお爺さんは山に柴刈りであり、どこまでもお婆さんは川に洗濯であると言う事です。同時に田地を肥やしておかなければ、貴いものが生まれないと思う。肥やしておくと言う事はどう言う事だろう。これは私は女に対するだけではなくて、男だって同じだと思う。
 例えば陰陽の道理をもって説かせて頂くでも、矢張り私共の内容には、男と女が同居しておる。それは陰陽少し大同小異はありますけれども、大変お徳を受けられた先生と言うか、沢山信者が生みなされて行くと言った様な所の教会の先生は、非常に情が強い。そうかと言うて非常に厳しい。そういう両面を持っておられる先生の所に、沢山な人が出てくる訳ですね。沢山な信者を擁しておられます。
 一方的に強いと言うのではいけない。お互いの心の中にも、そういう男と女が同居しておると言う様うなものを感じる。ですから田地を肥やすと言う事は、結局心を肥やすと言う事でしょうが。私は今日の一時の御祈念の後のみ教えが、やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと言う心になれよと言う事になってる。昨日か一昨日かもここを頂きましたですね。同時に又どの位頂いたか分かりませんけれども。
 今日は又この事ですからどういう風に、教祖のお言葉の深さ広さと言うものを、頂くべきだろうかと思うておりましたら、良薬は口に苦しと言う事を頂くのです。これは良薬は口に苦しと言う事が分かっておれば、苦ければ苦いほどああこれは良い薬だ、良く効く薬だとお礼が言えれると言うのです。やれ痛やと言う心で有難し、今みかげをと言う心になれよと言う事は、そう言う事なのです。
 信心させて頂いとって、どうしてこんなに難儀が続くだろうか。ではなくてですその難儀が強ければ強いほど、それは良薬は口に苦しと言う事と知っておらなければならない様に、私共が頂いておる天地金の神様という神様は、ただ氏子が可愛いいという御一念だけしかおありにならないと言う事実を踏ん前て、それを分からせて頂いたら、憎うて叩く親がある筈はありませんのですから、その躾が厳しいなら厳しいほどです。
 私ぐらいの者を神様がこの様にして鍛えて下さると言う、良薬が口に苦い様に苦ければ苦いほど、お礼の心も強くなって来る様なものだという事を頂いたんです。ですから私は田地を肥やすと言う事は、その様にして肥えて行くのではなかろうか。どんなに苦い事であってもです。臭い思いをする様な事であっても、じっとそれを堪えるとか、忍ばせて貰うという行き方です。
 あゝこの苦いとで心の胃腸が健全になりよるんだと。あゝこれはニンニクのごと臭いばってん、これが愈々体の滋養になりよるんだという様な頂き方なんです。それをこんな臭い物は嫌です、こんな苦い物は御免こうむると言った様な生き方では、世界の田地は肥えない。取分け女は世界の田地と仰せられますから、世界の田地が肥えない。肥えておらなければ貴い物が生れんと言う。女賢うて牛売り損なうという言葉があります。賢しいと言う事は、どう言う事でしょう。
 利発である利口であると言う事ではないと思うです。賢しいと言う事は、出しゃばると言う事ではないでしょうかね。家老か殿様の分にまで入って行くと言う事じゃないでしょうかね。お爺さんあんたは洗濯に行きなさい。私は今日山に焚き物取りに行くけんでと言う様な事じゃないでしょうかね。私は自分の家庭の事を言うてお可笑しいですけれども、皆さんご承知の様に、私の方の家内なんかはもう何も出来ません。
 もう本当に何も出来ませんけれども、昨日は家内の誕生日でした。沢山な御信者さんから親奥様お誕生日おめでとうと言うお届けがございました。昨日下がらせて頂きましたら、こう山に積んでありますもん。俺が時にゃ誰も持って来んばってん お前が時だけ持って来るねち言う位です。それは信者さん方からだけではない、言うなら子ども逹からまでも、嫁逹からまでも頂いているのです。まぁだ私は子供逹から嫁逹から貰うた事がない。それでまぁ私の家内の事を申してはおかしいですけれども。
 だいたい物も言いきらんからではありますけれども、絶対言いませんです。勿論だから嫁姑の諍いがあった事もあろうともしません。まぁ性格的に黙っておるというだけではなく、やっぱり彼女は彼女なりにそこを信心を頂いておるのじゃないだろうか。そして決して子供逹の上にでも、目に余る様な事がないじゃないでしょうけれども、それをじっと田地を肥やしておる様な働きが出来ておるのじゃなかろうかと思うのです。
 引き換えて私の母と言う人は、家内とは全然違います。言うならば大変利口ですし、商売人ですし、父が四十幾つで会社を止めましてから、この方と言うものは母の働きだけで私共は育って来たんです。商売が木炭と酒の卸小売でございましたから、もうこの位働いた人はなかろうと思う位です。言うならばまあ遣り手と言う事でございましょう。これは家内とは全然違います。けれども私共の家内が子供達に対する、又主人である私の父に対する態度と言うものは、これは絶対なものでした。
 父には絶対に服従でした。本当にあの、世界の田地を肥やすと言う事に於いては、本当に素晴らしいと思いました。性格ですから私の母は、或る意味では気の利いた人。家内はぼんやりしてる方。けども共通するものはです、黙って受けると言った様な生き方においては共通しとるとです。これは何と申しましょうかね、神心の強い人と申しましょうか。そけは本当に、只々頭の下がるばっかりです、母の生き方には。だからこういう尊いのが生まれたと言う事になるのじゃないでしょうかね。
 だから利口であるとか利口でないとかと言う事ではないのです。女は女の分域を守ったと言う事です。家老としての働きをしたのです。殿様は殿様として立て貫いておったと言う事です。そして様々な難儀様々な事柄の中に、それを一切心の根肥やしともして行ったと言う事です。私の母がみ教えの深さと言った様なものに、触れておったとは思われません、信心は長いですけども。天地の親神様という方はこう言うお方だ。言うならば良薬は口に苦しと言った様な事は知らなかったかも知れません。
 神様のお働きと言うものは、絶対愛だと言った様な理屈は知らなかったかも知れません。けれどもその絶対愛を知っておったかの様な、生き方をしておったと言う事です。良薬は口に苦しと言う事を知っておった様に、それを黙って受けて行っておる所にです、胃が強うなったと言う事になるのじゃないだろうか苦いものに。だから私共はですこうして教えて頂くのでございますから、確かに良薬は口に苦しと言はれるのですから、苦ければ苦い程、効きよるのだと分かったら。
 言わばお礼を言うて行かなければいけないと言う事です。天地の親神様と言う方はです、氏子可愛いいというお心だけしか持ってはおられないお方だと言う事です。それが分かったら、例えば、どういう難儀の様相を呈して参りましても、そのやれ痛や今それがみかげだと言う風に頂けなければいけんのです。だから田地が肥えるのです。昨日私の夢の中のお話を聞いて頂いたですね。
 信心も山登りと同じと仰るが、峠に行ってそして向こうに降りた所を、高橋さんと、秋永信徒会長が、私が指図しながら此処も撮っとけ、あそこも撮しとけと言うて、写真撮っておる事をお話しました。良薬口に苦しと言う事がもう分かっておると言う事です。私は信心がある程度分かって、山を登って向こうへ降りたら安心じゃと仰るがです。良薬は口に苦しと言う事が本当に分かる。天地の親神の働きの中には、氏子可愛いいの一念だけしかないと言う事が分る所は、もう向こうへ降りた姿だと思うのです。
 だからそこには一つも問題がないわけです。そういう実相をあちらで写真に収めておったとそれからまた  峠へ登って又こちらへ降りて来ると言う、昨日はご理解でしたけれども、私は確かにそうだなぁと思いました。秋永先生なんかが過去に於いて、色んな難儀な問題を抱えておりました。特に人間関係では非常に難儀を致した人です。どういう例えばそれが、むごい事になってもです、それこそ心の底にはです何かニヤッとする様なものを感じると、その当時言うておりました。
 神様がこげんして自分をこなしござるが どげなおかげを下さろうと思うてござるじゃろうかと思うたら、こなされておる事は苦しいけれども、その底からニコッとするものが生まれて来るのはです。この神様は愛の一念しかないと言う事が分っておるから、ニヤッと笑われるのです。昨日、高橋さんのお届を、改めて聞かせて頂いて、やっぱり高橋さんが、向こうへ降りて写真を撮しておられたと言うのは こういう事であろうかと思ったことは、昨日福岡の駅前の方に支店があります。
 そこの責任者がやって参りまして、それこそ何か大変深刻な顔をしてやって来てから、まあ大変な事が起こったとこう言う。どうしたかと言うた所が、売上げをいつも持って帰るのに、その日に限ってお店の鍵の掛かる、ちゃんとした所に置いてあったんですけども、それをごっそり大きな札だけ盗られてしまっている。金額は十万ちょっとだったらしい。それで大将これは私共の不始末不手際と言う事をお詫びに来てる訳です。
 その時に高橋さんが言うておられることは、こりゃそるばってんか只事じゃないぞと。こりゃ済むも済まないもない、こら神様のご都合に違いはないと言うておられるです。なぜかと言うとその二三日前に、あそこのお店の方が店の御用で行きよってから、他所の車にぶっつけた。それが丁度十二万か何か、修繕費を出しておられる。その時まではお前が注意しなければという風に思われたかも知れません。けれどもそれが二度続いた時に、もう翻然として分かられたんです。
 こりゃとても何日於きに十万ずつ損をすると言う様な事が、只事ではないぞと思われた訳です。言うならば心の底に神様の念の中には、愛の一念だけしかないんだと言う事を知っておられるんです。峠を越えて向こうへ下りて写真を写して来ておられるです。神様の愛の一念と、親愛の働きの中には、撫でさすりする様な所もあるかと思うと、又叩かれる様な場合もあると言う事を知っておられるからです。だから是は只事じゃないぞ、こりゃあんた逹の不始末であると言う事じゃない。
 これは神様が何かをここに下さろうとしておるか、分かれよと言うておられるかと言う事を、分かったというのです。だからその事の為の御礼のお届けが昨日ありました。だからここまで信心を頂いたらです、もう峠を登って向こうへ降りたら、それで安心じゃと仰るが、神様もここまで行ったら、もうあの氏子は安心じゃと言う事になるのじゃないでしょうかね。撫でさすりする時には有難い。叩かれる時にはまた尚有難い。ここを分からせて頂いた時にです。
 もうこの氏子は放うからかしとっちゃよかと言う事じゃないでしょうか。そういう生き方がです、私は田地を肥やす事だと思うのです。愈々田地が肥えて来る。ここになって来ると、これは女だけではないと言う事が分かります。だから自分の持ち場立場というものを、まず認識させて貰うて例えば家内と、私の母と言うのは性格が全然違います。けれどもその家内として、母親として又は姑として私の母は、九十三で亡くなっとります。その婆の妹と言う人がかかって来ておられました。
 ですから八十婆さんを二十年間余り、一緒に見て来ております。だから嫁としての母嫁としての家内、母親としての私の母であり母親としての私の家内と言うものがです、私は訳は分からんなり田地を肥やす事に一生懸命精進して来ておって、今日のおかげを受けておるんだという風に思うんです。どうぞ一つ女の方は特に家老の分域を出てはならない。矢張りお婆さんは川に洗濯にの所を努めきって行ったらそれで良いのである。
 同時に田地を肥やすと言う事に於いては、男も女も同じだそれには本気で良薬は口に苦しと言う、一つの真理を分からなければいけません。天地の親神様は氏子におかげをやりとうてたまらんという神様だと言う事です。いわゆる神愛と言う事を申しますが、全てがおかげであり全てが神愛。私共が頂いておる神様が、そういう神様であると言う事が分れば叩かれても痛い、けれども有難いと言う事になるのです。
 そこが分かった時に、神様はもうこの氏子は大丈夫じゃ、安心じゃと神様が安心して下さるのではないでしょうか。女がようなければ家がもてん。まぁ私の母やら家内の事を聞いて頂きましたがです。どこと、別に取り柄はないのですけれども、ここん所の分域を守って、しかも田地を肥やすと言う事には、自分逹は知るや知らずやで分かりませんけれども、確かにそこん所で、確かに田地が肥えて行った様に思います。
 そこに良いものが育って来た、生まれて来たと言う事になるのじゃないでしょうか。皆さん一つ、本気で良薬は口に苦しと言う事を、一つそういう真理を把握されなければいけません。それが苦ければ苦いほど、それは顔はそれこそ、あゝ苦いと言いましょけれども、心ではこんなに効く薬だと言う事を分かられたら、その苦い事に対して、お礼が言えれる信心を頂いて行きたいですね。
   どうぞ。